アートはヘイトを超える

なんでモダンアートかなり悪いの?

あいちトリエンナーレは心配していた通り痛々しい出来事になった。

アートとなのればなんでもいいのか?

以前に拙い和訳をした動画を共有した。正統派の芸術が廃れ、ショッキングであったり、アート界隈がもてはやすものがアートとされてしまうことについてのだよ。

hoodoo.jp

今回は翻訳をしてくれた方がいるのでそちらを紹介するね。

youtube

ここで懺悔すると私は作品を主張に使っています。言葉だけでは伝えられないことを、イメージだけでは伝えられないこと補うために文字を入れて画を作っている。

「モナリザ」、「ピエタ」、「真珠の耳飾りの少女」。2000年にわたって、芸術家たちは驚くほど美しい作品によって西洋社会を豊かにしてきた。「夜警」、「考える人」、「ロッキー山脈」。

@tarafuku10

ダ・ヴィンチ、レンブラント、ビアスタットなど、数多くの巨匠が、卓越性の最高基準を自らに課し、前世代の巨匠たちの作品を超えるべく腕を磨き、可能な限り高い質を追求することで、私たちにインスピレーションと励ましと深みを与える作品を制作してきた。

@tarafuku10

しかし、20世紀へと向かう途中で何かが起こった。奥深いもの、インスピレーションにあふれるもの、美しいものは、新奇なもの、変わったもの、醜いものに取って代わられた。今日では、馬鹿げたもの、無意味なもの、そして不愉快なだけのものが、最高のモダンアートとして称揚される。

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ダヴィデ像は政治的メッセージを込めたもの

ミケランジェロは「ダビデ像」を1つの岩から削り出した。一方で、ロサンゼルス・カウンティ美術館は1つの岩を展示した。340トンの単なる岩である。これほどまでに水準は下がった。なぜこんなことになったのか?芸術的な完璧さと卓越性の高みを目指した1000年にわたる取り組みが、なぜ水泡に帰したのか?

@tarafuku10

ミケランジェロは技術はもちろんのこと、やんごとなき共和主義者でもあった。ただすでにパトロンのいた彼は政治的、社会的行動は控えていたんだ。時がたつにつれ、パトロンであるメディチ家は専制になってしまう。ダヴィデ像は最終的にシニョリーア広場の市政庁舎の玄関前に置かれることなった。メディチ家の宮殿の中じゃなくてね。これは専制の側ではなく、共和制民主主義の側にたつ、市民の解放と圧政者への勝利を意味するものだった。

いや、水泡に帰したのではなく、隅に押しやられてしまったのだ。19世紀後半、印象派と呼ばれる集団が、フランス芸術アカデミーとその古典的基準への要求に反旗を翻した。その意図がどうであれ、新しいモダニスト達は、美的相対主義、すなわち「美しさは見る人によって決まる」という精神の種を蒔いた。

@tarafuku10

今日、印象派を嫌う人はいない。ほとんどの革命と同様に、初期の世代は真に価値のある作品を生み出した。モネ、ルノアール、ドガは、まだ鍛錬を積んだデザインとタッチを維持していた。しかし、世代が代わるたびに基準は下がり、遂には何の基準もなくなった。最後に残ったのは、個人的な表現だけだ。

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偉大な美術史家のヤーコブ・ローゼンバーグは、芸術の質とは「単なる個人的な意見の問題ではなく、大部分において客観的に追跡可能なものだ」と書いた。しかし、今日、芸術の質について普遍的な基準の話をすれば、あからさまな蔑みか、そうでなければ強烈な抵抗に遭うことが多い。

@tarafuku10

「芸術を客観的に測ることはできるのか?」と問う人がいる。そういう人には、普遍的な基準に基づいて制作された芸術作品と、相対主義に基づいて制作された作品を比較してください、と言うだけだ。

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前者は「ヴィーナスの誕生」や「瀕死のガリア人」を生んだ。後者は、牛の糞やポルノ画像を素材として使って制作された「ホーリー・ヴァージン・メアリー」を生み、しゃがんで小用を足す女性警官の彫刻に人工の尿の水たまりを加えた「ペトラ」は賞まで受賞した。

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美的基準がなければ、質の高さや劣悪さを判断することはできない。私は大学院生にあるテストをしてみた。全員が才能にあふれて高い教育を受けた学生だ。このジャクソン・ポロックの絵画を分析して、何が優れているのか説明してほしい。

@tarafuku10

学生が雄弁な回答を披露してくれた後、私はそれが私の作業用エプロンの接写であることを明かした。私は彼らを非難しない。両者を区別するのはほぼ不可能なのだから、私もおそらく同じことをしただろう。

@tarafuku10

「誰が質を判断するのか?」と問う人もいる。知的に誠実であれば、プロの専門知識が求められ、頼りにされる状況があることを誰もが認めるだろう。オリンピックのフィギュアスケートを考えてみよう。

@tarafuku10

芸術的な卓越性は、その道の専門家によって判断される。見境なくアイスリンクの上に身を投げ出して、練習を積んできた選手の競技者と同じ価値を認めてくれという選手がいたら、私たちは間違いなくウンザリしてしまうだろう。

@tarafuku10

芸術の質が落ちただけでなく、題材も超越的なものから低俗なものへと変化した。かつての芸術家は、歴史、文学、宗教、神話などからの意義と高潔さにあふれるシーンにその才能を捧げた。今日の芸術家の多くは、主張のために芸術を使っているだけで、ショックを与えることだけが目的の場合もしばしばだ。

@tarafuku10

うん、実際に行ってショックだったよ。

過去の芸術家が主張をまったくしなかったわけではないが、作品の視覚的な卓越性を犠牲にすることは一切なかった。悪いのは芸術家だけではない。いわゆるアート・コミュニティにも責任がある。こうしたガラクタの制作を促し、金銭的に支援してきた美術館の責任者、画廊オーナー、批評家たち。

@tarafuku10

落書きを有難がってそれを天才の作品と呼び、スカトロ趣味を推進してそこに意味があると言ったのは彼らだ。実際のところ、裸の王様なのは彼らなのだ。他の誰が1つの岩に10億円も支払い、それが芸術だと考えるだろうか。 しかし、なぜ私たちはこうした悪趣味の犠牲者にならなければならないのか?

@tarafuku10

いや、そんなことはない。 どのようなアートを美術館で支援し、画廊で購入するかによって、私たちの意見を知らせるだけでなく感じさせることができる。結局のところ、画廊もビジネスなのだ。商品が売れなければ、事業は成り立たない。

@tarafuku10

また、芸術の世界に客観的な基準を取り戻すことに取り組んでいるアート・リニューアル・センターなどの組織を支援することもできる。さらに、教育機関で古典的な芸術鑑賞を教えることを推進するのもいいだろう。

@tarafuku10

良いと分かっているものを祝福し、そうでないものを無視しよう。 ところで、私の後ろに見える白い背景だが、これは単なる白の背景幕ではない。これは、サンフランシスコ近代美術館が所蔵する、著名な画家・ロバート・ラウシェンバーグによる真っ白な絵画である。 ロバート・フローザックでした。(了)

@tarafuku10

中川昭一先生は死の直前にダヴィデ像を見ている。巨人ゴリアテを投石で倒した少年にはなれなかった。

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